毎回、描く前に用意していた僕の考えはことごとく打ち砕かれる。
「こんな絵を描こう!」なんていう僕の意向は絵の前ではまったく無力だ。
 もちろん、描き始めるには何かきっかけ(たとえば、昭和のすごろくや映画のポスターなどを見た。ボロボロの看板にうっすら女性のシルエットを見た。インスピレーション?)が必要であり、そこから想像し得る、たどり着けるであろうとりあえずの目的地を目指して出発する。
 だが、いざ描きだしてみると、道は思っていたような道ではなく、実際は仮想の目的地など存在せず、僕は僕の思惑とは関係のない場所にいる。そこをさまよううちに描き出した理由はどこか遠くに去り、ただそこにあるものだけを見ながら絵を描くようになる。絵と自分との距離がぐっと近くなる。
 
 そんな事を繰り返していると、本当にごく稀にだが、僕が描いたとは到底思わない、思えない絵が出来上がることがある。何枚も何枚も描いてもめったに出会えない。たとえ他の誰であろうと二度と描けない、そんな絵だ。「在る」という事だけがのっかったキャンバス。
 
 もちろん絵であるからして、絵具と画布が在り、浮かび上がる文字も山も景色もその他の何もかもが、突然そこに在り、なんの疑いもない。在るということに疑いはないが、僕はその景色をまったく知らない。その景色には過去も未来もなく、その景色(※便宜上、景色と言っているに過ぎない知覚)だけが在るべくして在る。
 
 デジャヴュとジャメヴュのどちらにも属さない。
 在ることは受け入れられるが理解はできない。5W1Hをせせら笑う景色。実にいい場所にたどり着いたと思い写真に収める。
 
 もう一度行ってみたい場所。そしてまた絵を描き始める。「この前のあんな絵を描いてやろう!あそこにもう一度行こう。」
 気が付けば、またもやたどり着けない場所を目指し始めている。

2017.7.31

 最近めっきり絵が描けなくなった。何を描いても嘘になる。こんな事なら何も描かない方が良いに決まっている。
 そんな事を考えながら仕事場でダラダラ過ごすのが最近の僕の仕事のスタイルだ。情けない話だが本当なんだから仕方がない。
 僕の絵は概ねナニガシかの(複製の)継ぎ接ぎでできた出来損ないのキメラの様なものだ。そもそも自分が何を描きたいのかも解らないし、何を描いていいかも解らない。それでも創造の欲求、創作意欲という奴がムクムクと湧き上がるものだから、とりあえずは目についた物でも描いてみようといった具合である。
 
 ここ数年僕が描いてきた物といえば、旅行代理店のチラシに乗っていたカニや、特撮怪獣映画の背景の山や、どこかで見たスナックの看板の文字であり、駄菓子屋のおもちゃであり、アメコミのコマの端っこの雲である。他にあげてみても、映画のチラシのレタリングやネットで拾った誰かの写真なのである。ボディビル雑誌のマッチョマンも幾度も描いたように思う。
 身の回りのあらゆる物を描いては消し、描いては消し、何の思想も哲学も大義名分もないままに描いてきたのだ。その取捨選択もよくわからないままに、考察する余裕もなく、野蛮な手つきで、ハサミも持たずに引きちぎり画面に投げつける様に描いてきたのだ。
 そして、それでもまだ描く意味も道理も対象も見つからないものだから、いつの頃からか前に描いた自分の絵をなぞる様に次の絵を描くようになった。そんな事(あえて言うならば誰かのパクリで成り立った己の絵の度重なる剽窃である)を続ける内にそもそもの「カニ」や「山」がどこからやって来たのかが曖昧になってきたようだ。
 もちろん、上にも書いたように旅行代理店のチラシのカニであり怪獣映画の背景の山なのだと僕ははっきりと知ってはいるのだが、それでも同時に曖昧で誰のものでもない様にも思えてくるのである。
 繰り返し描くうちに本質が自分のものになったのだと言えば聞こえもいいが、実態は借りたことすら忘れたままに己のポケットにしまい込んでしまったカリパクという方が近いのではないだろうか?
 今更、「そもそも芸術とはミメーシスだ、これが(まねぶ)というやつだ」、という様な事を言いたい訳ではないし、ここ数年のパクリやトレースといった物への社会の関心事をとやかく言いたいわけでもない。むしろそんな面倒な事は考えたくはないのだ。
 たまたま、「僕はこのように絵を描いてきてしまった」だけの事である。
 もちろん、僕がこのように描いてきた事実を現代性や社会と結び付けて考える事も十二分に可能であり妥当であろう事を否定はしないが。
 
 で、ここからが本題?になるのだろうか。
 
 いや、正直に言ってしまえば、はじめにタイトルありきの展覧会なのである。
 たまたま、コピコピというタイトルの絵が数点あったと言ってしまえばそれまでの事なのだ。そこから、自身の創作スタイル、今後の展開を無理矢理くっつけながら、copy & copyというテーマをでっち上げたわけだ。
 
  複製であり、模倣であり、原点から幾分距離のある何かである。
  劣化コピーの行く末であり、自身の分身であり、誇大妄想でもある。
  様式であり、直観であり、泣き言なのである。
  乗り越える意志も計画もないままに踏み出した第一歩なのである。
 
  僕(そして僕たち)は知らぬまに影響を受け、知らぬ間に盗っ人になりうるのだ。
  そして、時には自ら進んで眼を閉じるのである。
 
  僕は青臭い。とことんまで青臭い。
  一応それを解った上で描いている(そして書いている)事だけは知っていてもらいたい。

2017.1.6

宇宙の静寂と虚空の闇夜が
昨夜の満月と鍋の中のすっぽんが
君の絵筆と乾きかけのパレットが
画布に塗りつけられた絵の具と垣間見えた物語が
ハレの日の着物と草臥れたおやじのステテコが
生まれたての右脳としわくちゃの左脳が
エジソンの閃きと達磨大師の忍耐が
短めの大腸と夜中に食べ過ぎたホルモンが
机の引き出しに残されたパンと笑い者のカビが
ひとときの「われわれ」とえいえんの「あなたたち」が
 
いまひとつ、仲良くなれないから・・・
 
キャプテンフランスパンとレーザーワニも

2015.6.1

私は、『人物像や風景』などの具象図像と『記号や幾何学図形』さらには『絵画的マチエール』といった抽象性の高い図像を重ね合わせることで、『主題の意味や物語』と『絵の具の物質性』とが乱立し交錯する画面を造りだす事を試みている。
それは、物質と虚像という絵画の本質を見つめなおす試みである。

2014

理〇の通じないところで、難解なパズルを解く。世界を解きほぐす理〇は見つからないが、絵を描く理〇だけが在る。

2014

たぶん宇宙。
 
私の絵のモチーフは様々だ。
この世界中で動き続けている何かと何か。ぶつかり合い、溶け合い、引き合い、反発する何か。
エントロピーは増大し、変化が変化を呼ぶ。影響は、目的ではない。
決定論も不確定性原理もすべて包み込むように、今日は明日の前日。
明日にはまた、次の絵が出来上がる。
何を描いてもいいし、何も描かなくてもいい。画面の中で均衡だけを求めている。
そんな絵は、たぶん宇宙に似ている。

2014.8.1

絵画は観念である。と同時に絵画は物質でもある。
一見したところ具体的なイメージを持ち、物語を内包し、私の観念の伝達者として存在している私の絵画にしても、多様な絵の具のマチエールに覆われ一枚の布地である。その、両面にこそ私は惹かれている。
子供のころ、御伽噺や夢想に耽りながら、キラキラと輝くオハジキやビー玉を眺めていた。魅力的な物語と魅力的な物質はいつも私の頭の中で付かず離れず戯れているようだ。

2013.7.20

「昔の女が言うには、俺の絵はロマンチックが過ぎるってさ。内容の話じゃぁねーぜ。絵の具やカンバスのロマンチシズムがぺったり眼に焼きつくんだと。
あそこの親父が言うには、俺の絵には頭を抱えるってよ。あっちもこっちもシンボルだらけじゃぁ、そりゃそーか?
とある絵描きが俺の絵を随分と褒めるんだ。あんまり褒めるんで気味がわるくってさ。でも、何が可笑しいって、俺の絵はあいつの剽窃にすぎねぇーってぇ事よ。笑っちまうわな。」

2011.9.20

私の描く絵には様々なモノが描かれている。ふと見渡せば、あらゆる所であらゆる物が影響しあい、微妙な力関係は常に押し合いへし合いしている。
多重にかさなった層の中で、皆が絡まりあっている。膠着ではなく、流動を求めている。
それは、きっと私が、自立、分断、個人、一つで完結したモノ(人)の存在を信じてはいないからだ。
溶けては固まる境界線を描いていたい。

2011.7.1

見る者すべてにとって、可能な限り不可解な物を描いてみたい。
概ね具象画を描いてはいるが結局のところ、それが何処であり、それが誰であり、何時であるのか、全く何も解らない絵を描いていたいと思う。
モチーフと空間を細分化し、画面の上に幾重にも層を重ね、切断と接合を重ねる事で生み出される偶然性を取り込みたいとかんがえている。

私が絵画を描く時に目指しているものは、「構成と調整を繰り返された心地よい混沌」ともいうべき状況である。その為、モチーフと空間を細分化し、画面の上に幾重にも層を重ね、切断と接合を重ねる事で生み出される偶然性を取り込みたいとかんがえている。

「押し合いへし合いごっつんこ」
古今東西、社会ではそんな事が日常茶飯事に起きているわけだが、収束と発散を繰り返しつつ破綻を免れているこの世界(誰もが破綻を認めていないだけだとしても)の成り立ちに私は大変興味を持っている。決して好意を持っているわけではないが。
その微妙なバランスを自分の手で味わってみたいのだ。

私が描きたい物は『対立的な環形構造』である。あまり意味を成さない言葉の様だが、それは様々な矛盾を抱えたこの社会の事かもしれない。(又は、矮小で陳腐な愛憎劇とも言えるのだが)
グローバルという言葉も随分聞き飽きたが、乱立と同時性が黙認される現在『あらゆるモノから等距離にあり、あらゆるモノと等価値な任意の二点』を個性的に効果的に描き分けることは可能か?そんな問いに答えるべく今日も筆を握っているつもりだ。

『足せ、足せ、足せ!たまには足して、もう一杯。柄杓の筆が曲がらぬうちに・・・』

2009.11.8

「正直者で生きるだけなら、電卓にでもできるのに…」

2009.4.1